50代からのお気楽山登り

これから山登りを始めようと思う方、ハードな山は無理だけど山歩きを楽しみたいという方に参考にして頂けたらと思います。山行記録と写真、行程図のイラスト、私なりの難易度を載せています。

【埼玉、美里町】2020年5月《特別休暇32日目~第2弾》

虎ケ岡城趾の崖の上から、こんにちは。


いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。


今朝は朝イチで寄居町の花園御岳城趾を見学して来ましたが、出発地の少林寺に戻ると、時刻はまだ9時過ぎでした。

これならもう一ヶ所行けちゃうね、ということになり、虎ケ岡城趾に向かうことに。

虎ケ岡城趾は、この特別休暇が始まってから、陣見山と雨乞山に縦走した際に最初に立ち寄っています。

当時はお城になど全く興味がなかったので、堀を通過してもただの掘れた場所だと思うくらいで何にも気がつきませんでした。

実を言うと、私は歩きながら「もしかして、これはお堀の跡かな」などとチラッと頭をかすめたのですが、何の資料も持ち合わせていませんでしたから、そのままスルーでした。

なので、今回は地図もバッチリ用意して、城趾探検したいと思います。

さて、特別休暇32日目、後半戦のスタートです!


☘️5月9日(土)

~ 虎ケ岡城趾で巨大城壁を見つけるも、井戸は見つけられずの巻 ~

《登山難易度1》

①が花園城趾、②が花園御岳城趾です。

虎ケ岡城から見て、花園御岳城と花園城がトランジットしているのが良く分かりますね。

今回も虎ケ岡城趾南側の登山口から歩き始めました。

ヒメジオンの蕾が可愛らしいです。

この小さな花は何という名前なのでしょう?

妖精が羽ばたいているように見えました。

初めのうちはなだらかな道です。

緑泥片岩の石垣が現れました。

これは城趾の一部なのでしょうか?

それとも段々畑の名残り?

登山道脇に石垣が連なっていました。

石垣に囲まれた直径3m程の窪地です。

これは井戸の跡ですかね?

すっかり埋まっていますが。

徐々に傾斜がきつくなります。

アキレス腱が伸びっぱなし💦

ゼェゼェ言いながら、峠に向けて登ります。

15分で筑坂峠に到着しました。

ここで波久礼駅方面から登って来られた女性二人組と少しおしゃべりしました。

今日は陣見山まで行かれるのだとか。

どちらに行かれますか?と聞かれ、「いや、虎ケ岡城趾を調べに来ました」と答えると、すごいですね~⤴️などと言われ、恐縮しきり💦

いえいえ、にわか城趾ファンなのです。

城趾探検を始めてまだ10日ほどしかたってないビギナー中のビギナーです😅

しばらく平らな道を行き、階段に取りつきます。

ここまで平らな道だったので、もしかしてここが小郭かもと思い、辺りに曲輪や虎口、或いは土塁石垣などがないかとキョロキョロしながら歩いたのですが、全く城趾らしきものは見当たりませんでした。

段差が大きな階段です。

心拍数を上げながら登ります。

次の写真からは地図(余湖さんの絵を真似て私が描いたもの)に写真を撮影したポイントを赤い数字で、方向を矢印で示しています。

写真の下に《No.○○》とあるのは、この地図の赤い数字のことです。

《No.1》

「2郭」に乗りました。

《No.2》

左手に細い曲輪が伸びています。

ここには後程立ち寄ることとして、

《No.3》

今は「1郭」に登ることにします。

前回はこの左手の急斜面を無理やり登ったので、今日は右手のなだらかな道を登ってみます。

これが余湖さんの地図に載っていた「内枡形の虎口」だと思います。

《No.4》

「1郭」に乗りました。

虎ケ岡城(円良田城)は戦国時代より前に花園城の支城として藤田氏によって築かれたという説と、戦国時代に鉢形城の支城として猪股小平太範綱によって築かれたという説があるようです。

いずれにしても、戦国時代には、鉢形城の支城群のひとつとして、鉢形城に食糧を供給する重要な役目を担っていたということです。

豊臣勢の鉢形城攻撃の際に、この城にも大軍が差し向けられ、矢那瀬大学により20日間も防戦し、最後は落城に至ったと書いてあります。

大軍に攻撃されたのに、20日間も守ったとは、すごくないですか?!

この小さなお城を守る為にそんなに長い時間戦ったなんて。

私がリーダーなら、数日で諦めてすぐに白旗挙げちゃいますよ。

いやぁ、頑張ったんだなぁと。

前回同じ文章を読んでも何も感じなかったのですが、色んな城趾を見てきて、当時の戦いの様子を思い浮かべながら歩いていると、この「20日間の防戦」というわずかなキーワードに心を打たれるようになってしまいました。

城の名残りを見て、築城の際の絶対に城を守り抜くんだ!という強い意思のようなものを、地面からそして森の気配から感じているからだと思います。

この山からは今も本庄と赤城山などの上州方面の見晴らしが良いのです。

今日は霞んでいますが。

《No.5》

これは「1郭」の中央付近にある円形の窪みです。

余湖さんも何の痕跡か分からないと書いておられました。

若者が後世、ここに穴を掘ってキャンプファイアしたのかも知れませんし、もしかしたら本当に当時の遺構かもしれませんし、真相は不明です。

《No.6》

先ほどの虎口から「2郭」に下り、「堀3」方向へ歩いています。

《No.7》

この写真は「1郭」下のこぶのような出っ張りを撮影したものです。

余湖さんの「土塁のように出っ張った所。かつて木戸があってのでは?」の文章を読み、ここのことかとこの時は思ったのですが、今思うとこの時立っていた場所がそれだったのではないかと。

なので、この写真はあまり意味がありません。

地図に⑦と書いてしまったので、一応載せておきます😅

《No.8》

「堀3」に下ります。

ここです。

私が前回歩いた時に「もしかして堀の跡だったりする?」と思った場所です。

やはり堀でしたね。

しかもかなり規模が大きい。

《No.9》

「堀3」に立って対岸を見ています。

明瞭な横堀です。

そこから更に竪堀が続いていました。

落ち葉に埋まっていましたが。

「堀3」で地図を確認する私の様子をハガレーナが撮影してくれました。

城趾めぐりの際はいつも手書きの地図を手に持って、撮影場所を記入しながら歩いています。

そうしないと後で写真を見ても全くどこだか分かりません😣

《No.10》

「5郭」に乗りました。

普通の山道にしか見えませんが。

確かにしばらく平らになっています。

「堀2」に降りたハガレーナとターボが竪堀の横に移動して、断崖絶壁の下に行ってみました。

私は「5郭」の西の端に立ち下を覗き込んでいます。

絵に描かれていた大きな石垣のようなものは、この天然の絶壁の事だったのですね。

ハガレーナとターボが立っている場所は上から見たのでは良く分かりませんが、かなりの急斜面のようで、落ち葉がズルズルと滑って足場を確保するのに苦労していました。

そんな二人が上を見上げた写真です。

高さはどのくらいあるのでしょう?

ゆうに10mは越えていそうですよね。

自然の崖を大胆に削って城壁となしていたのでしょうね。

すごい遺構を発見してしまいました。

通常の登山道を歩いていては見つけられませんでした。

ハガレーナのお手柄です。

身軽なハガレーナが急斜面を斜めに下って下に立ってくれたから分かりました。

《No.13》

写真が前後しますが、、。

こちらは「5郭」の端にある「小郭」なのではと思います。

違ったらごめんなさい💦

郭というより、ただの土塁に見えましたが。

「余湖さん」の絵にある「小郭」らしきものは他に見当たりませんでした。

《No.12》

その土塁のような「小郭」に乗って「堀2」を覗き込んだ写真です。

《No.14》

「堀2」から次の細長い尾根に乗ったところです。

《No.15》

対岸の土塁から「堀2」を見下ろしたところです。

どちらにも盛り上がった土塁がありますので、かつて木橋

が掛かっていたりしたんですかね?

(素人の想像です)

《No.16》

尾根を陣見山方面へ歩いています。

この辺りから城趾の名残りが良く分からなくなりました。

道は下りになり、鞍部になるのであれば堀が見られるかな?と思ったのですが、それらしきものは発見できず、、

《No.17》

やがて所々に岩が見られるようになってきました。

《No.18》

これが余湖さんの絵の西の端に描いてある崖なのかどうか定かではありません。

しかし、道はどこまでも続いていてあの絵の縮尺が省略なしだとしたら、このまま行くと行き過ぎてしまう気がしたので、ここで引き返すことにしました。

《No.19》

元来た道を戻ります。

《No.20》

やがて右手に竪堀のようなそうでないようなものが。

「堀1」は絵を良く見てみると横堀はなく、竪堀だけが描かれているように見えます。

だとしたら、これが竪堀(落ち葉で埋まって全く堀の体裁を成してないですが)なのだと思います。

《No.21》

ということはこの辺りが腰曲輪なのだけど、う~ん、良く分からないです😢

《No.22》

「堀3」まで戻って来ました。

対岸の高い所に見えるのが「1郭」です。

《No.24》(No.23を飛ばしてしまったようです)

「1郭」下の曲輪から後世につくられた階段を登って「1郭」に戻りました。

しばらく東屋で小休止し、下山前に木立の間から猪股城趾が見えないかと覗いてみますが、明確には分かりません😅

見えているはずなんですが。

《No.25》

では下山は東方向へ。

初めて歩くルートです。

急斜面に階段がつくられています。

堀が見えて来ましたね。

堀女ハガレーナが「堀だ、堀だ!これは良くわかる堀だ!」と嬉しそうです。

《No.26》

二人はとっとと対岸に渡ってしまいました。

《No.27》

「堀4」に立って左右の竪堀を見ました。

倒木などで全く迫力に欠けますが、、。

その先が切れ落ちているのだと思います。

《No.28》

そんな私を対岸に立つ二人が撮影してくれました。

いかにこの堀が深いかが分かりますよね。

今は階段になっていますが、元は岩盤を削って敵が攻め込めないように防備を固めていたのでしょう。

《No.29》

尾根を東方向へ真っ直ぐ下ります。

傾斜は徐々にきつくなりました。

小石や枯れ枝が落ちているので、一度枯れ枝の上に右足を置き、ズリッと滑って尻餅をつきそうになりました💦

更に道は急坂になります。

堀が見えて来ました。

《No.30》

「堀5」に立った二人を上から撮影しました。

《No.31》

「堀5」に立って左右の竪ほりを見たところです。

ここには倒木もなく、きれいに堀が見えますね。

もちろん枯れ葉で埋もれていますが。

竪堀なので、その形を確かめる為に枯れ葉を掘って先に進む勇気はありませんでした。

滑り落ちたら奈落の底です。

落ち葉で足元が見えないのは本当に怖いです。

《No.33》(No.32を飛ばしたようです😅)

更に下ります。

この先に径が5mの井戸があるらしいのです。

それを探しながら下ります。

道は快適なのですが、一向にそれらしきものが現れません。

見過ごしたかと思い、一度引き返したりもしましたが、見つけられず。

《No.34》

このこんもりとした場所をこの時は井戸の跡なのではないかということにしました。

径が5mくらいのこんもりで、それを取り囲むように木が立っていたので、そうなんじゃないかと。

しかし、帰宅してからターボがネットで調べると、ちゃんと石垣が組まれた井戸であることが分かり、これではない事が判明しました。

えええ、この絵にある井戸って一体どこにあったのだろう???

三人で目を皿のようにして探しましたが見つけられませんでした!

残念です(涙)

この時は「井戸も見つかって良かった、良かった」と言いながら歩いております。

途中右手が開けた場所がありました。

正面が猪股城趾、それにトランジットする形で奥に鐘撞堂山、その右手の三角が高根山です。

花園御岳城はギリギリ森で見えない😣

最後は階段となり、

簡素なお社があったので、

「お邪魔しました。ありがとうございました。」と手を合わせました。

下山したのは東登山口でした。

そこからは車道を歩き南登山口に戻ります。

目の前に見えているのが、虎ケ岡城趾です。

車に帰り着いたのは12時ちょい過ぎでした。

半日で二つの城趾を歩いてみる事ができました。

それにしても、唯一井戸が心残りですね。

絵からすると、バッチリ尾根上の登山道の真ん中にありそうな感じですが、まぁそもそもここに描かれているのは登山道とは関係ない縄張り図なわけで、ちょっとどちらかに入った所だったのでしょうね。

虎ケ岡城趾は、「1郭」の高さが際立っている気がしました。

東からのルートも大きく横堀を切り、容易に攻め込めないようになっています。

西側は「堀3」から見た「1郭」の高度差がすごいです。

絶対登れないと思う。

だから20日間も防戦できたのでしょうね。

虎ケ岡城は規模が小さいですから、花園城のように堀が入り組んでいるわけでもなく、単純に深く深く堀を築き、天然の城壁に守られるようになっていたのだと思います。

(素人の勝手な解釈です)

シンプルでいて、効率的な美しい山城だったのだろうなと思いました。

気分だけは、すっかり城ガールになっちゃいましたね😊

これに知識を伴って初めて城ガールを名乗れると思うので、今のところは「エセ城ガール」ということで😅


いつも応援いただき、ありがとうございます😊

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