【埼玉、寄居町】円良田湖の話を聞く。2020年6月
円良田湖から、こんにちは!
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
今日は仕事で円良田湖の観光協会に立ち寄ったので、その時に仕入れた新情報をお届けします。
円良田湖にある寄居町観光協会の会長Sさんは、なんと、円良田湖や北武蔵隧道、そして円筒分水堰を造った栗原建設の三代目社長と同級生だったのです。
「栗ちゃん」「Sちゃん」と呼び合う仲で、「栗ちゃん」は、観光協会が寄居町駅前から円良田湖畔に移転してきてからは、毎日のように散歩で協会に立ち寄っているとのこと。
「昨日もここの窓に来て挨拶してたよ」「毎日杖ついて円良田湖を散歩して、じいさんの(栗原翁)石碑に手を合わせてるよ」との情報をいただきました。
おおお、探してた方とニアミスだーーっ。
栗原建設は10年ほど前に三代目で閉じたのだとか。
「図面が欲しいんかい。栗ちゃんの家にならあるんじゃないかな?家を教えてやるから行ってみな。喜んで迎えてくれると思うよ。穏やかでいいヤツだから」とはSさんの弁。
事務員さんが、栗ちゃんちの場所や電話番号を調べてくださいました。
ありがとうございます!!!
いきなり行っても大丈夫だとSさんに言われたのですが、さすがにそれは失礼かと思い電話してみることにしました。
その前にSさんに教えていただいた円良田湖の見学です。
一度じっくり見てみたかった円良田湖の越水路です。
観光協会の奥にある階段を登る途中に見ることができました。
昨年秋の大きな台風の時はここを大量の水が流れていたそうです。
たまらずもうひとつの水路(Aさん水路)を開いて欲しいと頼まれ、嵐の中、末野のAさんが水門を開けに来たと先日の取水塔見学の際に聞きました。
地形に合わせてS字にカーブした越水路です。
奥に越水堰が見えます。
左手に円良田湖造成に寄付をした人々の名前が刻まれた石碑がありました。
草に埋もれていたのを、観光協会さんが整備したそうです。
もちろん、鈴木熊吉さんの名前もありましたよ😊
円良田湖碑です。
・荒川北岸に位置する寄居町(用土村)、花園村、藤沢村、岡部村、美里町は北武蔵の台地で、水田は雨水か溜池を利用する天水田であり、長年不作に悩まされていた。
・関係町村の有志により県に陳情し、調査研究の結果として、美里町円良田より流れる逆川を寄居町末野境で締め切り貯水池とし、鐘撞堂山中腹を東北方に2280mの隧道を掘削して、寄居町用土に導水。
更に東南北に分水し、延長20キロの連絡水路をつくる計画を立てた。
・昭和17年8月に県の事業として寄居町外九ケ村用水改良事業を起こし、同年11月に隧道工事に着手。
太平洋戦争前後の混乱期で、労資の不足により一時は工事中止の危機もあったが、地元町村により北武蔵用水普通水利組合(現在の北武蔵用水土地改良区)を設立し、事業の推進に寄与した。
・昭和24年1月に隧道貫通。
直後に堰堤の造成に着手。
昭和30年3月に、長さ128m、高さ21mの堰堤及び取水装置を完成させた。
これにより、周囲4キロ、水面12万平方メートル、水深18m、貯水量65万平方メートルの円良田湖が完成した。
・総事業費は1億6000万円。
・これにより560余町歩の農家が救われ、経営の安定を得た。
・ひとえに地元町村と土地改良区組合員の理解と協力の賜物であり、湖底となった12町歩の田畑山林等、円良田・末野両部落の犠牲の上に成り立っている。
こちらが工事を請け負った栗原政寛翁です。
・栗原政寛翁は鴻巣市の生まれ。
・土木請負業で、特に堰堤工事の権威として、鎌北湖、宮沢湖をはじめとした各地の大規模工事を行っていた。
・昭和17年11月に円良田湖造成を請け負い、幾多の困難を乗り越え、14年の歳月を費やして工事を完成させた。
・利害を越えた不屈の信念と努力の賜物である。
銅像の裏に立つと、最近耐震工事が終わった越水堰が真下に見えました。
端に昭和30年当初の名盤がありました。
いつも車で通りすぎるだけだったので、歩いてじっくり眺めることができて良かったです。
当時の人々の心情を思うと、コンクリートの構造物が特別なものに見えてきます。
この後車に戻り栗原建設の元社長「栗ちゃん」に電話をしました。
電話で5分ほどお話を伺うことができました。
突然電話したのに、不審がることもなく親切に教えてくださいました。
それにより分かったことは、、
・円良田湖が完成した当時は6歳だったので、土を運ぶトロッコなどがあったなとは覚えているが、それ以外あまり記憶がない。
・当時は円良田湖の現第二駐車場辺りの社宅に住んでいたが途中で末野に引っ越したので、工事の様子を見れなくなった。
・会社は三代続いたが、お子さんがなかったこともあり、ご自身の代で終わらせることになった。
・会社を畳む際に、会社にあった円良田湖関係の図面は土地改良区に届けた。
・土地改良区に納めた図面は石堤の構造を示すもので、取水塔や隧道、円筒分水堰のものはなかった。
、、、ということでした。
やはり私の見たかった図面(取水塔、隧道、円筒分水)は存在しないということが分かったわけです。
役場にも北武蔵改良区にも、当時理事長だった鈴木熊吉さん宅にも、工事を請け負った栗原建設にも存在しない。
ということは、高い確率で、もうこの世には存在しないということですよね。
ウォーリーが北谷津池の回りを散歩している時に、北武蔵改良区の所長さんに偶然お会いしたらしく、「図面がなくて壊れたときにどうするのですか?」と聞いてみたら、「壊れたところだけ治すのだ」と言われたそうです。
紙媒体で保管するしかなかった時代を長く過ごしてきて、もう60年の月日が流れたのですから、重要書類の保管の難しさを感じますね。
とはいえ、この短い間で水路に関わる何人もの方とお話しができ、取水塔の見学もさせていただき、「図面はない」という結論に行き着けたことは一定の成果であったと思います。
図面がないなら足で稼ぐしかありません。
来年の田植えシーズンにはまた、水路の水を追いかけて、分水堰からのルート解明にチャレンジしたいと思います。
いつも応援いただき、ありがとうございます。