50代からのお気楽山登り

これから山登りを始めようと思う方、ハードな山は無理だけど山歩きを楽しみたいという方に参考にして頂けたらと思います。山行記録と写真、行程図のイラスト、私なりの難易度を載せています。

【島根】私の誕生日が父の命日となりました。2020年12月25日~29日

帰省中何度も見上げた「大岡山」の山頂に立つ父です。


いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。


私の誕生日、午前中は巨木探しの散歩に出掛け、ばぁばとお昼ご飯を食べた後は、午後の面会までの間、午前中の散歩の様子をブログに書いていました。

すると、ばぁばの携帯の着信音がなったのです。

ばぁばの携帯にかけてくるのは兄か病院しかないので、歯磨きをしていたばぁばが大慌てで廊下をかけてきましたが、間に合わず。

「ありゃ、きれた」と言うと、間髪入れずに今度は自宅の電話が鳴り響いたのです。

私はその時埼玉で留守番中の次女と電話をしていました。

でもばぁばの様子から、どうやら病院からだと分かり電話を切ったのです。

「どうした!?」と言うと「おじぃさんが顎で呼吸するようになったけぇ、急いで来てくれと!」と。

、、、ついにきたか、、。

実は昨日主治医から説明があり、危篤になった原因の肺炎はほぼ完治しているものの、なかなか元気にならないため、点滴の内容を栄養価の高いものに変え、もっと太い血管から入れることと、貧血を改善するための輸血を年内に始めると言われたのです。

主治医の話によると、「そうすりゃぁ、だんだん体力が回復すると思うんですよ」との事だったので、これはしばらく大丈夫そうだなと思った私は、「どうしようか?明日埼玉に帰ろうかね?しばらく大丈夫そうなら、一旦埼玉に帰ることにしようかの」となりました。

なので、その後父の病室に行き「お父ちゃん、わたしゃあ明日埼玉に帰るけぇね!点滴ももっとええのにしてくれるし、輸血もしてくれるんと!そしたらお父ちゃん、元気になれるんと!じゃけぇ、わたしゃあ明日埼玉に帰るけぇね。また来るけぇ、それまでに元気になっとってね!」と話しかけたのです。

すると目を開けた父は分かったのかどうなのか、わずかに首を縦に降ったのでした。

「それじゃ行くけぇね!またね!」と言うと、今度はうなずくことはせず、目を開けてアラームのなる計測機器の赤い点滅をじっと見つめていたのです。

あれ?今までの反応とちょっと違うなと思い嫌な予感がしました。

病室を出て廊下を歩きながら、「どうしょうか?わたしゃどうすりゃあええんじゃろ?」と言うと兄が「おれるんやったら、ちーとでもおっちゃれ」と言ったので、やはり30日までは島根にいようと決めたのでした。

濃い点滴と輸血をした経過を見て、少しでも改善しつつある父を確認してから埼玉に帰ろうと思い反したのです。

寂しくなってしまったばぁばの力になりたいというのもありました。

なので、あと一週間お父ちゃんとばぁばの側にいることに決めました。

今日お父ちゃんの面会に行ったら、「やっぱり帰るのやめた!もう一週間おるからね」と父に話をしよう、、そんな風に思っていた矢先の電話でした。

ばぁばと(車がないので徒歩で)息をきらしながら駆けつけ、二人で声をかけながら、父の最期をみとりました。

兄が益田に出掛けていて不在だったので、「お兄ちゃんが益田から帰って来よるよ!お父ちゃん!まだ待っちょってよ!」と体を揺すって語りかけましたが、間に合わず、父は帰らぬ人となりました。

享年91歳。

死因は「老衰」でした。

今日埼玉に帰らなくてホント良かった。

あのまま帰宅を選択していたら、名古屋辺りで引き返すことになり、死に目に会うことは叶わなかったでしょう。

兄は「お前が埼玉に帰るちゆうたろう。じゃけぇ、安心したんと思うよ」と言いますが、私には「みほが帰るんじゃ、この辺で最期にせにゃいかんか」となったのではないかと思いました。

それとも輸血など再び始めると聞いた父が「そげなことしたらまたエライめに合う。こりゃぁいけん」と思ったのかもしれません。


父が入院したのは11月26日でした。

今年に入ってから家での食事があまりすすまなくなっていた父は少しずつ痩せ、体重は30㎏ほどになり、体力や気力がなくなっていました。

ばぁばからそんな様子を電話で聞いていましたが、コロナ禍の中で帰省することはできませんでした。

「まだせやない。コロナが収まってからでええよ、帰るんは」と言われていました。

しかし通院した際に血液検査の数値が悪すぎたことから、そのまま入院になってしまったのです。

まさか入院になるとは父もばぁばも予想してなかったので、特に父は何故入院することになったかも理解できない様子だったとばぁばは言います。

そこから約2週間、点滴とリハビリの入院生活でした。

コロナの関係もあり、ばぁばは週に二回ほど洗濯物の受け取りのために通う日々だったようです。

思えば12月10日に発した父のこんな言葉から始まりました。

お見舞いに来ていたばぁばにリハビリをした後の父が「わしゃあ今晩死ぬけぇね。今までお世話になりました」と言ったのだそうです。

ばぁばは驚き、半信半疑ながらもその夜は携帯電話を枕元に置いて就寝したと言っていました。

しかし電話は鳴ることはなく、無事11日の朝を迎えたのです。

ばぁばは「お父さんの思い違いじゃったか」と安心し、11日にはお見舞いに行きませんでした。

それまでは命の危うさを感じることはない、リハビリ入院でしたから。

しかし、12日の朝、病院から呼び出しの連絡があったのです。

誤嚥性肺炎により右肺が真っ白になり、危篤状態でした。

主治医に「覚悟しておいてください」と言われ、兄から私に連絡があったのは朝9時頃でした。

「親父がヤバいけぇ。覚悟しとけっちゅうて言われた」

そこから新幹線に飛び乗った話は既に以前のブログに書きました。

そこから2週間、父の容態は安定し、平行線をたどっていたのです。

この平行線が少しずつ回復に向かってわずかにでも上向いた平行線なのか、父の体力をじわりじわりと奪っていく平行線なのか、判断が難しいところでした。

主治医は比較的楽観的な発言をします。

自宅に帰ることは難しくても、再び口から食べ物を摂取できる位には回復するのではないかと考えていたようです。

しかし、私には、死へのカウントダウンが始まっているようにしか見えませんでした。

私が帰省してからの2週間、酸素のカバーを外そうとしたり、ばぁばの問いかけに答えようとする姿がみられていた父が、毎日見るたびに反応が鈍くなり、動かなくなっている気がしたからです。

結果的には私の思っていた通り、少しずつ少しずつ父の生きる力を奪っていく2週間だったことになります。

天寿をまっとうした父でした。

生ききった、最後の最後まで命を使い果たしたという印象でした。

死に目にあうことは叶わなかった兄が一時間後に亡き父に対面した時、「よう最後まで頑張ったの。偉かったで」と言いながら頭を撫でていました。

後から思えば、10日にばぁばに「今までお世話になりました」と言ったのが最後の言葉となりました。

その後は危篤、意識混濁の状態となり、明確に意思表示することは叶わなかったわけですから。

父の心は自分の死が近いことを悟ったのでしょう。

しかし父の体の生きる力を使い果たすのに2週間必要だったということなのだと思います。

ある意味「有言実行」の最期でした。

自宅に帰り葬儀の準備をしながら、父の写真を探しました。

これは兵学校頃の写真です。

私の長男ケイの小学~中学生の頃の顔に良く似ていることに驚きました。

大人になった父。

私は昔からお父ちゃん子でした。

寡黙で気難しいところもありましたが、私にはいつも優しい父でした。

長女ナツと。

次女イブと。

長男ケイと。

懐かしい写真が沢山出てきました。

笑っている写真が少ない中で、孫たちと一緒の写真に笑顔が見られたのが嬉しかったです。

孫たちを連れて帰省した時の家族写真です。

私も病気をする前で、まだいくらかスマートな頃ですね😅

私は父に何ひとつ親孝行しなかったことが心残りでした。

「いつか関東の山に一緒に登ろうね」などと言いつつ、埼玉での生活に手一杯で、それが実現することはありませんでした。

こちらの両親が健在の間はなかなか難しく、夫の両親を見送った頃には父は脳の病気を患い、山登りなどできない年齢にもなっていました。

これは父が東京の病院から退院した時に空港で撮影したものです。

あぁ、もう山登りはできないなと思いました。

それが私の中でずっと心の重りとなっていたのです。

しかし今回写真を整理する中で、私など心配しなくとも、老後はばぁばのお陰で色んな所に旅行に出掛けたり、山登りを楽しんでいた様子が伝わってきたのでした。

サイパンのホテルにて。

サイパンで戦死した親族の慰霊の旅でした。

これは私が船に乗っていた時に横浜か晴海に見学に来たときの写真ではないかと思います。

父の老後は幸せでした。

それが分かり、肩の荷がすーっと取れた気がします。

ばぁば、お父ちゃんに幸せな時間をありがとう。

通夜は自宅にて父の好きだったモーツァルトの音楽を流し行われました。

葬儀は神式にて、簡素ながらも厳かに執り行われました。

楽士さんもお二人来てくださり、太鼓と笛の音で父が神霊となる助けをしていただきました。

参列していただき、父の思い出話をしてくださった皆さん、本当にありがとうございました。


この2週間あまりの帰省では、初めてばぁばと二人だけの日々を過ごし、色んなことを話し笑いあいました。

兄とも何度とドライブに出掛け、兄の郷土愛・家族愛にふれることができました。

父がこれからの私たち家族が分かりあい、助け合い、気遣いあって暮らしていけるように、用意してくれた2週間だったのだろうと思っています。

帰省して2週間後の葬儀だったので、コロナ疑惑もなく堂々と親戚の皆さんの前に立てたというのもあります😅

ま、お父ちゃん、そこまで考えるほどの策士ではなかったけどね。

あ、私の誕生日を命日にしたのは、うっかりやで忘れっぽい私にちゃんと忘れさせないようにかも!?

それはあるな、うん。

ホントは30日に埼玉に帰ってくるつもりでしたが、30日から日本海側は大寒波で大雪予報だったので、そうなる前に山から逃げ出してきました😆

これからまたフツーの山登りブログになると思いますので

今後ともよろしくお願いします🙇⤵️


いつも応援いただき、ありがとうございます。

×

非ログインユーザーとして返信する