50代からのお気楽山登り

これから山登りを始めようと思う方、ハードな山は無理だけど山歩きを楽しみたいという方に参考にして頂けたらと思います。山行記録と写真、行程図のイラスト、私なりの難易度を載せています。

【歴史を学ぶ】鈴木熊吉氏著、「用土城跡」を読む

いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。


先日北武蔵用水土地改良区を訪問した際に、所長さんに見せていただいた「北武蔵用水土地改良事業概要案内」の見開きに載っていた「鈴木熊吉さん」のお孫さん(私の友人です)に電話をして、実家に何か資料が残されてないか問い合わせたのです。

しかし、当時の資料は何も残っていないとのこと。

ただ鈴木熊吉さんが「用土城」に関する本を出していて、図書館にあるという情報を得たのです。

今回調査している水路の話に用土城は関係ないですが、当時この水利事業に奔走された方が書かれた本なのであれば、もしかしたら何かヒントになることが書かれているかもしれないと思い図書館に向かいました。

寄居町図書館には当該書籍が一冊保管されていましたが、貸出はできない、写真撮影もダメで、半分だけならコピーしても構わないということでした。

そのため全55ページの半分の27ページまでをコピーして持ち帰りました。

持ち帰ったその夜、帰宅した夫にその事を告げると、夕食を食べながらあっという間に読んでしまいました。

「へぇ、あそこは昔○○って言ったのか~⤴️全く昔の字名は残しておくべきなんだよ。それには必ず謂れがあるんだから」などと独り言を言いながら読んでおりました。

「あー、もう終わっちゃった😅」と言っているので、翌日ターボに残りの半分をコピーして来てもらうことにしました。

図書館で半分しかコピーできないと言われたので、「じゃあ今日半分コピーして、明日また残りの半分をコピーすればいいのですね?」と言うと、「いや、そういうことではない💦」「著作権の関係で、、💦」とスタッフを困らせてしまいました。

なので、私が残りをコピーするのは好ましくないのだろうと思うので、ターボにお願いした訳です。

結果一冊まるごと「火曜日山の会」で回し読みすることになりますが。

著者のお孫さん(ご本人は読んだことないらしい😅)に「読んで感想聞かせてね。読んでくれて嬉しい😆」と言われているのですから、何の問題もないと思います。

ということで、読んだ内容をまとめてみました。


《自序》

① 著者は用土の高城という用土城趾に生まれ、「戦国時代用土新左衛門という豪族が城を築き、領主として用土村を治めていた」と聞かされ興味を持っていた。

② 第二次世界大戦となり、物不足が深刻化するなかで、食糧増産策が打ち出された。

③ 寄居町周辺の9つの村による広域の普通水利組合が設立され、昭和17年11月7日、寄居小学校において、「円良田湖建設事業」の起工式が行われた。

④ しかし、大東亜戦争が激烈となり、工事はストップ。そこで用土が中心となり、工事促進協会を設立し、関係町村長に協力要請し工事を再開した。

⑤ 昭和24年2月11日、2,300mの【隧道を貫通】させ、一歩を踏み出した!

⑥ 昭和27年8月に【北武蔵土地改良区】を設立し、著者が初代理事長となる。

⑦ 用土を源として本郷(岡部町)に至る水路(藤治川)は、天文の頃、用土新左衛門が掘削して用排水とするため、草原を焼き田畑を開拓したと言われる。さらには大正時代に、清水近三郎村長が、村内に数ヶ所の溜池を設け、米穀の増産に努めた。

⑧ 戦後の物資不足、資金調達など問題が多く、工事は遅々として進まなかったが、遂に昭和31年3月、関係町村水田受益面積561町歩、補給水65万トンの貯水量を有する【円良田ダムを完成】させた。

⑨ これに前後して、昭和30年2月に用土村は寄居町へ合併したことから、著者は二期勤めた村長を退き、土地改良区の理事長に専念することとなった。

⑩ その後土地改良への努力が認められ、著者は昭和50年11月、勲五等瑞宝章を授与された。


《用土村に関して》

① 用土村は、谷津山(鐘撞堂山)より流出するわすがな水脈が、村の中央藤治川へ注ぎ、この川を中心に開拓し、古くから水田も多く、大麦小麦、米、養蚕をもって生計を営んでいた。

② 用土の南西部に高城と称する高台があり、ここに立つと赤城山、榛名山、浅間山、男体山、筑波山を見渡すことができる。

③ この高台は城郭としては最適の場所であり、戦国時代、藤田右衛門佐康邦が用土新左衛門と改名し、その高台に用土城を築いた。

④ 天正18年(1590年)、秀吉による小田原攻めにより、小田原城が降伏すると、小田原北條氏の領地は徳川家康に与えられ、用土城も含めた関東53城の大部分が廃城となった。


《用土城跡に関して》、、(大正7年4月現在)

① 用土城の敷地は藤田康邦の先祖が埋葬された墳墓だったと伝えられる。

② 大正初期、耕地整理のため全てがとり崩され、本丸跡は桑畑と化した。

③ 古墳からは鉄剣、まが玉などが多数出土した。

鉄剣は三本出土し、金鑽神社の宮司が持ち帰り、同神社に保管されている。

④ 内堀は、延長80m、深さ3m、幅3.5m。

外堀は、延長250m、深さ6m、幅7m。

⑤ 古井戸は三ヶ所あり、うち二つは現在も自家水道として使用されている。

⑥ 曲輪は、沖曲輪、中曲輪、表曲輪、西曲輪と、4曲輪あった。

⑦ 現在の字馬場にて馬の集合訓練を行った。訓練中死亡した武将の墓標が馬場先に存在する。

⑧ 「頭無」という場所は打ち首の刑を行った処刑場だった。

⑨ 【藤治川】は、鐘撞堂山麓(俗称谷津山)から発し、用土の中央を流れ、本郷、榛沢(岡部町)より小山川に合流し、利根川に入る。用土新左衛門が改修に努め毎年掘削し、堤防を高くし、川底が耕地より高いので、天上堀と呼ばれる。

⑩ 小田原北條氏康による関東制圧のための戦い「川越の大戦」に戦わずして降伏した藤田邦房(天神山城主)は、北條氏康の三男氏邦を、長女大福姫の夫として迎えた。

⑪ 藤田邦房は養子となった北條氏邦に、天神山城と花園城を譲り、天文18年(1549年)、自身は用土に築城し退いた。

そこで用土新左衛門と改名し、用土領主となった。

⑫ 北條氏邦は天神山城主になったが、天神山城は手狭だったので、鉢形城を修復して移転した。


《初代用土新左衛門》

① 用土城主となった初代用土新左衛門には二人の息子がいた。

長男弥八郎重連。

二男弥六郎信吉。

② 用土新左衛門は上野国平井城の上杉憲政を越後に追い功績をあげるなど、幾多の合戦に参加したが、戦場にての矢傷がもとで発熱し、永禄3年9月13日、用土城内で死去した。

連光寺に埋葬される。

(現在は寄居町末野の正龍寺に墓がある)


《初代用土新左衛門の勧農》

① 用土新左衛門は、草原を焼いてその灰を肥料とし、耕地を拡張した。

新たに八郷増やし八つの「ケ谷戸」の集落を作り重点的に米麦を増産した。

一説によると、用土は「八戸」とも言う。

② 谷津山を水源とする二つの大堀を掘削して、排水、用水路、農道を改修した。

③ 農工馬を飼育し、馬の集合訓練し、駄馬と乗馬を区別して有事に備えた。(字馬場)

④ 秩父地方から垣苗を取り寄せ、干し柿を作った。(字柿林)


《二代目用土新左衛門》

① 初代用土新左衛門死去に伴い、長男弥八郎重連が父の名を襲名し、新左衛門と改名した。

② 父の跡を継ぎ、八つの「ケ谷戸」の開拓に打ち込み、住民との関係は良好で領内は平和であったが、度々の合戦で苦しんだ。

③ 農耕に必要な鍬、鎌、なた、斧などが必要となり、鍛治屋を迎えた。現在も鍛治屋と称する屋号が存在する。

④ 他にも油屋、綿屋、町屋、道具屋などの屋号が少なくない。


《西福御前》

① 二代目新左衛門の母である「西福御前」は初代用土新左衛門の妻であり、元八王子城主大石隼人正定久の娘で、教養高く賢い婦人であった。

実子らと用土城に入り、息子を立派な武人に育て上げた。

② 豊臣秀吉関東征伐の噂が聞こえるようになり、家臣青木某他に男女三名と、筑坂峠を越えて秩父郡吉田郷の縁戚に避難したが、その後の消息は不明。

田野村にある田野山西福寺に西福御前の墓と称する宝篋印塔が三基ある。


《鉢形城陥落と用土開城》

① 当時の軍事力は 、

[北條方]小田原城以下53城、総勢34,250騎に対し、

[豊臣方]は16万の軍勢で、53城に分散して個々別々に潰す作戦だった。

② 秀吉の東山支隊は天正18年3月25日前後より碓氷峠を越えて上野に侵入、松枝、高崎、箕輪などの上州における鉢形城前進基地を約1ヶ月で攻略、4月下旬に北武蔵に侵入し、本庄、深谷、八幡山も抵抗なく開城した。

③ 東山支隊の前田利家、上杉景勝、真田昌幸の軍勢は鉢形城に向かい、前田は大手より、上杉は搦手より、総攻撃を開始した。

約1ヶ月の防戦の末、天正18年(1590年)6月18日に降伏した。

④ 用土城は当時用土新左衛門が部下100名余りと籠城していたが、6月14日、前田の軍勢約300名が桜沢から南飯塚を経て北飯塚を通過、用土城に迫り、新左衛門は無血開城した。

季節は6月で豪雨のため藤治川は氾濫していたが、そこに橋をかけて渡ったため、今でもこの橋を軍勢橋と称し残存している。

⑤ 開城の際、新左衛門は兵たちは全て日頃農耕を営む者たちなので解放してやってほしいと交渉し、無血解散に至った。

以後残党狩りが家康により行われたが、皆小さくなって農耕に従事していたと伝えられる。

⑥ 開城の際、新左衛門が鉢形城主北條氏邦の義弟であると伝えると、前田利家の本陣に連行された後、加賀へ連行された。

その後高野山にて仏門に入り、齡32才で、高野山持明院小坂坊にて死去。

用土の住民は歩いて65日もかけ、小坂坊の無縁仏に拝礼したと伝えられる。

⑦ 氏邦による毒殺説があるが、それは誤りであろうと考える。


《二男弥八郎信吉》

① 初代用土新左衛門(藤田右衛門左康邦)が亡くなった時、長男重連は19才、二男信吉は3才だった。

② 信吉は、後北條氏に抵抗して武田勝頼に加担、勝頼の死後その所領を北條氏に奪われるが、その後越後の上杉景勝に仕え、小田原合戦に参加。

関ヶ原合戦以降は徳川家康に仕えて、武蔵藤田氏の最後を飾った。

③ 武田勝頼の命によって、「能登守」と号する。

その後家康から「重吉」の名を賜る。

④ 鉢形城攻めの際は、縁故を頼り、氏邦説得に努めた。

⑤ その後病死するが、嫡子がなかったため、家督断絶となる。

⑥ 群馬県沼田市中央ドライブイン併設博物館に藤田信吉着用の甲冑が陳列されている。

⑦ まとめると、用土初代城主用土新左衛門康邦は戦場での傷がもとで病死。

二代目新左衛門は加賀の高野山にて剃髪死去。

弟は藤田を名乗り信州奈良井宿で病死。

北武蔵において、応仁の乱以降北條氏の滅亡まで120年余りの戦国時代と共に、用土城30有余年の血統が断絶したことになる。


《用土新左衛門正光》

① 用土新左衛門正光は、北條氏康の六男である。

② 藤田氏の断絶を憂慮して、新左衛門の養子とし、秩父に配置して甲州武田の侵攻を防ぐため横瀬の根小屋城に在城した。


以上、用土に関する部分を要約してみました。


驚きの事実がいくつもありました。

まずは、用土新左衛門って二人存在するのね!?という基本的なところから知らなかったのですから😅

初代用土新左衛門が藤田邦康時代は男衾幡羅、大里、榛沢の大部分を統括していたことを考えると、用土という小さな城の領主となり、それでも腐ることなく、農耕の発展に寄与してくれた事がいかに僥倖で、この地域にとって用土新左衛門がどれだけ偉大な指導者であったのか、想像するに難くありません。

二代目用土新左衛門が無血開城し、兵(農民たち)の命乞いをした辺りからこの物語はクライマックスを迎えました。

用土のため、農民のために、親子二代に渡って知恵を絞り努力してくれた領主が一人敵方に連れ去られ、最後は遠く加賀の高野山で仏門に入り、齡32才で亡くなったと聞いたとき、用土の民の心情はいかばかりだったかと、切なくなります。

この本を読んでいくつか確認したいことが現れました。

① 金鑽神社に保管されている用土城の鉄剣。

② 現在使われている二つの古井戸の存在。

③ 正龍寺の初代用土新左衛門の墓。

④ 田野山西福寺の西福御前の墓。

⑤ 軍勢橋。

⑥ 沼田市中央ドライブインにあったという藤田信吉の甲冑。

⑦ 字馬場にある武将の墓標。

これはいつの日かですが、、

⑧ 高野山持明院小坂坊の二代目用土新左衛門の墓標(無縁仏?)。


また報告できることがありましたらその時に!


いつも応援いただき、ありがとうございます。

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