【埼玉、寄居町】鉢形城趾資料館初訪問。2020年6月6日(土)
鉢形城趾から、こんにちは。
いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。
今日は6月2日から営業を再開した鉢形城歴史館を見学し、その後鉢形城趾を歩いてみたいと思います。
私は25年近く、ターボに至っては40年も寄居町に住んでいますが、初めての訪問になります。
鉢形城歴史館にやって来ました。
駐車場に鉢形城公園のフィールドマップ(縄張り図ではない)がありました。
これと同じもの(簡単なパンフレット)を受付で入館料200円支払うともらえます。
【史跡 鉢形城跡】
・戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定の史跡となった。
・面積は約24万㎡。
(東京ドーム5個分ということですね)
・荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた、天然の要害。
・交通の要所で、上州武州方向を望む重要な拠点。
・1476年、山内上杉氏の長尾景春が築城し、後に北条氏邦か整備拡充した。
・北関東支配の拠点であり、甲斐信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。
・1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝らの北国軍に包囲され、1ヶ月に及ぶ籠城の末、北条氏邦は、城兵の助命を条件に開城した。
、、、今日は1ヶ月にも及ぶ籠城を可能とした、天然の要害ぶりをこの目で確かめたいと思います。
歴史館の中には素晴らしいジオラマが設置されているのですが、残念ながら写真撮影は🆖ですし、パンフレットにも載せてないので、ここで紹介することが出来ません💦
ビデオ上映もあったので、それと合わせてよくよくジオラマを目に焼き付けて、いざ城趾に出発です。
歴史館でいただいたパンフレットに写真のナンバーを書き込みました。
《No.1》
広い広い外曲輪です。
端に土塁があるようなので、行ってみましょう。
土塁の斜面を登ってみます。
すると、驚きの光景が!
《No.2》
な、なんじゃこりゃーーっ!
これ、土塁ですか!?
いや、これ曲輪でしょ?ってくらい広いです。
今まで見てきた支城群とはまるでスケールが違います。
杉山城ですら、土塁と言えば人が1人通れる程の幅しかありませんでしたよ。
これが本城ってやつか!
支城とはわけが違うってことね。
何しろ守るべきもの(お殿様)が数百メートル先にいらっしゃるのですから。
美しい土塁と、そして、この堀の広いことと言ったら!
かつてはここに水が張られた水堀だったのだと思います。
水がなければ容易に敵が侵入できますもんね。
土塁の上を少し進んで振り返ったところです。
規模がデカイ!
いや、天守閣などがある平城を見るのが常の方ならその大きさに驚かないと思いますが、何しろこのところ、規模が小さな山城ばかり見ていたので、この大きさに度胆を抜かれました。
《No.3》
水堀の一番広い場所です。
ここにどこから水を引いていたのでしょう?
気になりますね~。
《No.4》
土塁が一旦切れますので、外曲輪に降りて見ましょう。
狭い杭の間を横向きにならないで通れるかチャレンジ中😁
左に遊歩道を行くと深沢川を渡って伝御殿曲輪などに行くようです。
私たちはまだ川は渡りません。
《No.5》
最初の所で広い広い外曲輪と書きましたが、こちらはその4~5倍は広い外曲輪です。
なんじゃこりゃーーっ!パート2ですね。
牧場ですか!?って言いたい。
草刈りをトラクターで行った跡がありますよ😅
《No.6》
最後は深沢川に落ちる横堀です。
ほぼ埋もれていますが、土塁の高さでかつてはとても深い横堀だったことが伺えますね。
天然の要害を形成する深沢川を覗いてみます。
《No.7》
なるほど、こりゃ深いわ😱
しかも、断崖絶壁です。
こんなところ絶対下れないし、登れないですよ。
《No.8》
外曲輪です。
真ん中辺りに石垣がありますが、あれはたぶん後世に作られたものですね。
《No.9》
馬出手前の横堀です。
《No.10》
馬出は西は深沢川、北、東、西はコの字に堀が巡らされています。
その堀(いまは水路になっている)に沿って道がありました。
《No.11》
馬出は今は民家(企業)の庭になっていました。
《No.12》
馬出北側の堀は今はこんなことに(涙)
やはり山城と違って鉢形城は平城なので、町に侵食され、遺構が破壊されている場合が多いのでしょうね。
深沢川は「四十八釜」と呼ばれている町指定の名勝だと書いてあります。
ここの先に「搦手(裏門)」があることから、深沢川に掛かるこの橋は「搦手橋」と言うようです。
「艫の滝」でしょうか?
《No.13》
こちらは「船釜」かな?
水深3メートルあるそうですよ。
確かになかなか美しいですね。
横に民家があって生活排水が流れ込んでるのでは?と思うとちょっと萎えるけど。
《No.14》
「笹曲輪」です。
この広場は熊谷高校の息子達が仮装をして熊谷の河川敷から長瀞まで駆け抜ける40キロハイクの際、寄居の保護者が子ども達にバナナを配給したり水分補給させたりする場所として毎年使っています。
ここが城趾だったとはね、最近知りました😅
こんな説明板があり、そして!
こんなジオラマ(なんと1/250)があるのです!
40キロハイクの時にはここは荷物置き場になってたなぁ、スミマセン💦
このジオラマを見るのが楽しい!!
このジオラマの左手が私たちが歩いてきた広い土塁と外曲輪で、右手が荒川なのですが、赤く丸した場所は今は搦手橋がかかっていますが、当時は馬出から深沢川に斜面を下り、川底に橋が渡してあったのだということがわかりますね!
青い丸が現在地、赤い丸が本郭、そして断崖絶壁の下に荒川が流れています。
正に天然の要害!
上に立って見下ろしてみました。
赤い線が深沢川。
緑の線が荒川なのですが、注目すべきは青い線です。
さっき水堀への水はどこから引いていたのかと呟いた気がしますが、これを見ると深沢川の上流からずっと堀が続いていることがわかりますよね!
深沢川から水を引き入れていたってことなんじゃないでしょうか?
広い水堀、そして深い深沢川、背後に断崖絶壁と荒川、、こりゃ難攻不落だわ😱
負ける気がしない。
この角度から見ると気になるのは二ヶ所です。
赤い丸は荒川に下る道がありますよ!
今でも下れるようになっているのかな?
後で確かめてみたいです。
青い丸は巨大な竪堀が荒川にズドンと落ちています。
こんなにすごい所、どんな構造なのか絶対見てみたい!
そして、この角度から見て気がついたのは、深沢川は上流ではいくらか川が広く斜面が緩やかなのに、本郭がある下流(赤い矢印)は狭い断崖絶壁になっているということです。
ここにこんな宝物のようなジオラマがあったとは!
今までベンチか荷物置きとしか利用して来なかったことが恥ずかしいです😣
鉢形城歴史館はもちろん素晴らしいですが、歴史館内の撮影ができないことを考えると、このジオラマをしっかり観察してから歩くのが最も効率的だと思いました。
写真も撮り放題ですしね!
《No.15》
石垣のある搦手から入ります。
土塁の上を歩き、
次の曲輪へ。
《No.16》
本曲輪の一段下にある小郭です。
《No.17》
本曲輪には必ず荒川に向け少し出っ張っている場所に見張りのためなのか土塁が造られています。
《No.18》
大きな堀切があります。
下には伝御殿曲輪があるようです。
西側が開けている場所がありました。
上の写真には左から金尾山城趾、花園城趾、花園御岳城趾が見えています。
下の写真では、鐘撞堂山の奥に虎ケ岡城趾も見えます。
猪股城趾だけは鐘撞堂山に重なって見えないのですが。
支城群、揃い踏みですね。
甲斐信濃からの侵略に備え、果敢に鉢形城に攻め込もうとする敵勢に背後から狙いうちします。
金尾山城は虎ケ岡城と共に、そもそも侵入させないための砦だったのでしょう。
もしも鉢形城をどうやって落とすかというボードゲームなどあったら、何回やっても勝てない気がしますよ。
まぁ、豊臣秀吉の小田原征伐で鉢形城に向けられた兵は5万人で、それに対して氏邦は3000人の兵で抗戦したのですから、時間の問題だったということなのでしょう。
対岸は寄居町により遊歩道整備が進められています。
その上にあるのは老舗の料亭「京亭」です。
あそこでこちらの親戚たちに結婚披露宴をしたんだったなぁ。
それ以来ご縁がありませんが😅
その後本曲輪の土塁をロープに沿って歩いていると、ロープの先にこんなところが?
おや、おや?これはさっき笹曲輪にあったジオラマで見た、下に降りれる道なんじゃないのかい?
ちょっと行ってみましょう。
とは言え、その道(?)の入口に花(古い造花)が手向けられていて、もしかしたらここで転落事故でもあったのかも?と思い、めっちゃ恐々進んでいます。
先はどうなっていたかというと、
この木まではまだ普通に歩けたけど、
下が見えない急斜面です。
木の所に立ち、「行く?行かない?戻る?それとも進む?」とターボに問いかけると「行けるようなら行って」という返事。
行けることは行けると思う。
その代わり辺りの木々を総動員して、必ずどこかに捕まって下らないと、足を滑らせたら多分大怪我じゃ済まないと思います。
「じゃあ、慎重に行くね。必ず枝や幹に捕まって来て!」と言いおき、先に進みました。
緊張で私の目が飛び出しそうになってますが😅
行き着いた先は、、
荒川を望む岩の上でした。
荒川が目の前です。
対岸でじゃれ合うカップルのはしゃいだ声が川に響いていました。
岩から下を覗いてみました。
多分これより先は行けません。
ジオラマで見た川岸まで降りれる道ではなかったようです。
左を見ると本郭下の断崖絶壁が垂直に切り立っているのが良く分かります。
天然の要害とはこのことよ!
ターボと場所を交代しました。
ここに立っていることが対岸から見えたらもしかして叱られる?と思ったので、派手な行動は出来ません。
いつものターボなら「おーーーい!」とか叫ぶところでしょうが、静かに目立たぬように写真を撮っていました😅
では戻ります。
下りでは張り出した太めの枝を掴んでバランス取りながら下りましたが、登りでは手の届く範囲に枯れ枝しかなくて、根をしっかり張っていそうな草を掴んだり木の根っこに指をかけたりして、慎重に登りました。
ターボも続きます。
ほぼ四足歩行です。
無事本曲輪に戻ってきて振り返ると、なんと「危険ですのでロープの先に入らないでください」の看板がありました😱
ひょえー、ごめんなさい。
私たちが来た方からは見えない場所でした。
慎重に行動すれば大丈夫な斜面ですが、若者などがなめてかかって、運動靴やビーサンなどで気軽に立ち入ると、足を滑らせ滑落する可能性はとても高いと思います。
別の日に自分たちが立った岩場がどこだったのか気になったので見てきました。
対岸から撮影しました。
多分真ん中に見えるあの岩場だと思います。
茶色くなった岩の上に立ったのです。
直下は断崖絶壁ですね。
こっちからかなり目立つな。
多分見られてたと思います😣
真似しないでください。
かなり危険ですし、そもそも「入るな」と書いてありました(後で気がついたんだけど)。
《No.20》
本曲輪の中枢に入ります。
田山花袋の石碑がありました。
田山花袋が詠んだ詩を武者小路実篤が書にしたためたようです。
国語の教科書でしか聞いたことのない名前が二つも出てきた!(笑)
本曲輪には段差があるようです。
更に奥に進むと、
《No.21》
ここでも荒川に突き出す位置に土塁が築かれています。
L字になった土塁に窪みのような場所があります。
ターボが調べたどなたかの縄張り図によると、井戸の跡かな?とあったらしいです。
何かは分かりません。
《No.22》
かつては道など無かったであろう斜面に今は階段が造られていますので、下の曲輪に降ります。
《No.23》
伝御殿曲輪に立つと、本曲輪下に大きな堀が巡らされていることが分かりました。
少し引いて見ると、本曲輪までかなりの高度差があることと、本曲輪に向け少しずつ高くなっていることが分かりました。
一旦車道を渡り、「二の曲輪」に向かいます。
ターボによると、伝御殿曲輪と二の曲輪の間の車道はかつて大きな堀だったのではないかと。
どなたかの縄張り図に大きな水路として描かれていたようです。
私たちが持っている地図はどこまでも現在の公園の様子なので、車道や住宅で破壊されたかつての縄張り図がないと全く分かりません💦
鉢形城歴史館にもそんなの無かったよなぁ。
今度図書館行って探さないとかな?
《No.24》
「二の曲輪」も広い!
感想がそれしかないです😅
《No.25》
こういうのが好きです😊
土塁があるので登ってみます。
《No.26》
ひゃーっ!
これまたどでかい!
堀と土塁の間に腰曲輪ですかい?というような土手があります。
《No.27》
あの辺りは先日一度歩いていますが、その時は城趾に大して関心がなかったので、さらっとしたもんでした。
また行ってみなくちゃなんですが、時刻を見るともうお昼に近いです。
さっきの内緒の崖下りで精神的に疲れたこともあり、「もう今日はここまでにしよう」とターボに提案しました。
「あたしゃ、疲れた😢」
まだ「伝秩父曲輪」「おくり泉水」など見てない所が沢山残っていますが、それは別の日に再訪することにします。
土塁の上を歩いて戻りましょう。
《No.28》
堀がウネウネしています。
これは「堀と畝」でした。
あ、ホントにウネなんだね。
敵が堀の中を進む時にスムーズに進めないように凸凹をわざと造っているらしいです。
《No.29》
車道を渡ると「馬出」です。
ってことはこの辺りに虎口があったってことね?
どこ?どこ?と振り返ってみましたが良く分かりませんでした。
あちらが「おくり泉水」とかなのだと思いますが、それは次の機会ということで。
《No.30》
エドヒガンの巨木とカタクリ群生地の土塁の間を深沢川に向かいます。
《No.31》
歴史館への近道です。
深沢川を渡ります。
少年たちが網で魚を追いかけていました。
彼らの邪魔をしないよう、私たちは上流に歩いてみようと思います。
川に降りると、さっきの疲れはどこへやら?
私は楽しくって仕方ありません😁
初めはこんな風でしたが、
上流に行くにつれ、段々左右の岩場が迫ってきます。
《No.32》
あ、ここはさっきの馬出にあった横堀が落ちてる場所だ!
生活排水が入っていると思いますので、成分を調べたら🆖だろうけど、見た目はとてもキレイな水でした。
ではそろそろ帰りましょうか?
鉢形城跡、想像以上の規模で、半日で見終わりませんでした💦
歴史館も立派だし、お金がかかっているなとは思うのですが、もっと城趾内に手作りでいいので、説明が欲しいです。
今はかつての様子を思い描くことが難しい場所が多いので、あのジオラマの写真の一部を切り取って、各場所にイメージできるよう掲げてくれると、もっともっと城趾めぐりが楽しくなるし、興味を持つ子どもも増えるとおもうんだけどなぁ。
その町の歴史を知れば、その町で生まれ育ったことに誇りを持ち、郷土愛が育つと思うのですよ。
日本人が日本人の魂たる古事記などの伝記を学ぶ機会をアメリカに奪われたことにより、日本人の誇りを持ちにくくなっている現実があるのですから、規模は違えど同じことだと思うのです。
大して費用はかからないと思うけどなぁ。
教育委員会さん、頑張ってください🙇
いつも応援いただき、ありがとうございます。